人って、本来良いもの?悪いもの?
極めて記憶力の悪い私は、ほとんどのこと(特に学校の授業で学んだ内容)は既に忘れてしまいましたが、
高校生の時、倫理政経か世界史だかの参考書で見たあるショッキングな内容は、今でも時々思い出します。
そこには、性善説と性悪説というものが載っていて、 「キリスト教は性悪説」 と書いてあったのです。
私は途方もない違和感を覚えました。
「嘘でしょ?!」
教会でこの上なく愛され、かわいがられてきた私には、聖書のメッセージがそんな内容だとは、とても思えませんでした。
それに「『人間は本来悪いもの』だなんて、なんだかイヤだな」とごく自然に思いました。
たぶんその頃はもうクリスチャンになっていたと思います。
洗礼を受ける時には「私の罪がキリストの十字架によって赦され、救われたと信じます」
みたいな信仰告白をしたはずだけど、
それでも、なんだか違和感がありました。
「いや、でも自分が罪人だって認めてるんだし、
『本来悪いもの』でも神さまに愛されてるんだし、それでもいいんだろう」
と、なんとなく、納得したかのような形で、その後長らくそのことは忘れてしまってました。
(やっぱり忘れてる・・・)
大学を出て、会社員をしてから、神学校で聖書を4年間も(私にしてはかなり)真剣に学びました。
聖書の一番最初の書物、創世記の一番最初の章には、
って書いてありました。
その言葉は、よ〜く知ってたはずなんだけど、
「あれれ、やっぱり本来人間は『非常に良いもの』だったんだ」
って改めて、考え直しました。
エチオピアに行く前、国際飢餓対策機構全体の海外派遣スタッフトレーニングが一ヶ月間ありました。
そこでもこの聖書の箇所が出てきて、こんな感じのことが話されました。
「人間は、本来『とっても素晴らしかった』のに、罪によってそれが『損なわれてしまった』んだ。
それを取り戻すのに、私たちはこうして、キリストにより頼んでいる。
キリストがもう一度来られる日には、本来の神のかたちと世界全体は、完全に回復して、完成するけど、
キリストが来られるまでの間も、自分を含めた一人ひとりと地上の回復に関わっていくのが、私たちのなすべき分なんだ」と。
だから、私たちが「何かしてやろう」「救ってあげよう」ということよりも、
(事を成し遂げさせて、人を救って下さるのは、神さまの仕事だから)
私たちは、専門的な技術や知識も用いるけれど、むしろ彼らと一緒の地に住んで、
お互いの中にある「素晴らしい神のかたち」が修復されていくために、
一緒に主を見上げて生きることそのものに大きな意味があるんだ、と教えられました。
実際、人々の中の神のかたちが素晴らしい形で発揮されていくのを、アフリカで見させてもらっています。
私自身がどうであるかは、ちょっとまだ、なんとも言えないところだけど・・・
がっかりするようなことも、ホントはたくさんあるんだけど、
でも、CSルイスという人は
「水の中に完全に浸かっていたら『濡れちゃった』とは思わないよね。
同じように、人間も世の中も、完全に悪だったら『悪い』なんて思わない。
悪はそれ自体が単独では存在できないんだ。
でも、乾いた地上で水たまりに足を突っ込んだら『濡れちゃった』と思うだろ。
同じように、あくまで『本来良かった』のが『損なわれてしまった』から、
こんな『悪い』ことが、と思うんだ。そう思うこと自体が、私たちが本来良いものだってことの証拠だよ。」
みたいなことを言っていました。
「そっか。じゃあ、私ががっかりするようなことも、希望がここにある証拠なのか」
と、ちょっとほっとしました。
いろいろあるとつい、否定的な考え方をしたり、言葉を使ったりしてしまいがちな私だけど、
私のアフリカでの仕事は、言うなれば、
『私たち人間は本来とっても素晴らしいものとして創られた』という事実を、
地域の人たちと一緒に再確認して、神さまからの視点に立ち返って生きることなんだな〜
なんて想う、今日この頃です。
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