エチオピアに働く人のためのキリスト教入門 2

Part 2:エチオピア正教編

 

まずは復習と予習から・・・

前回Part1 の入門編では、旧約聖書の中で特に有名なエピソードと新約聖書にあるイエスの生涯について、聖書の内容をもとにご紹介しました。今回は隊員の方々から寄せられた質問の中でも、世界の三大宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)に関することと、エチオピア正教の習慣についてお話したいと思っています。

アムハラ語の日常会話ではキリスト教に由来する表現がいくつも登場します。「バイ・イエソース」という表現は英語で言う「オー・マイ・ゴッド」のような感じで使われますし、「エグザビエル・イマスカン」という表現も日本語の「お陰様で」のように、頻繁に挨拶で使われています。それではまず、単語の復習から始めましょう。

 

 次の単語の意味を線でつないで下さい(日本語―アムハラ語)。

マリア                  イエソース

イエス                  ゲンナ

イースター              エグザビエル

                     ゲタ

主なる・聖なる          ファシカ

クリスマス              マリアム

 

ほとんどの隊員の方が全問正解のようですが、正解は順にマリア(マリアム)、イエス(イエソース)、イースター(ファシカ)、神(エグザビエル)、主なる・聖なる(ゲタ)、クリスマス(ゲンナ)です。それでは前回の復習を兼ねて次の問題。

 

以下の文書を分かる範囲で完成させて下さい。

1. イエスは_________人の弟子を連れて、宣教の旅に出た。

2. イエスが裁判にかけられたのは_______曜日、処刑されたのは_________曜日とされる。

3. イエスの誕生日は_________________復活日は__________________と呼ばれている

4. キリスト教は____________教から発生し、やがて_____________帝国の国教となった

5. 魂を休める日(安息日)はキリスト教では_______曜日、ユダヤ教では________曜日、イスラム教では________曜日である。

6. ________________はキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の全てで聖典とされている

 

第一問、「イエスは12人の弟子を連れて宣教の旅に出た。」聖書の中でイエスが名前を挙げ、選んだ弟子の数は12人です。弟子のほかにもイエスの教えに従い、共に宣教の旅を続けた人々、女性達がいます。イエスの弟子の数が、のちのローマ帝国時代に暦を変える際、1年を12ヶ月とする基準になっています。詳しくは前回のPart 1:聖書編をご参照下さい。

第二問、「イエスが裁判にかけられたのは水曜日、処刑されたのは金曜日とされる。」エチオピア正教の習慣のなかで、毎週水曜日と金曜日がツォム(断食)になっているのは、このイエスの受難を覚えるためのものです。欧米のクリスチャンの間でも、毎週金曜日(受苦日)には肉を控えて、質素な食事をする習慣が残っています。

第三問、「イエスの誕生日はクリスマス、復活日はイースターと呼ばれている。」クリスマスといえば欧米や日本では12月25日なのですが、ユリウス暦を利用するエチオピアでは3人の博士がイエスを訪ねる1月7日をクリスマスとお祝いしています。12月25日がクリスマスとなったの4世紀以降なので、エチオピア・クリスマスの方がオリジナルと言えます。

また日本ではほとんど注目されませんが、クリスチャンにとってイースターはクリスマスと同じように(あるいはそれ以上に)大きなお祝いの日となっています。クリスマスと違い、イースターの日付は毎年変わります。

第四問、「キリスト教はユダヤ教から発生し、やがてローマ帝国の国教となった。」最初は厳しい弾圧を受けたキリスト教が、やがてローマ帝国の国教となり、ヨーロッパ文化の礎(いしずえ)として多くの影響を残します。キリスト教はもともとユダヤ教の一派だったため、初期のキリスト教の影響が強いエチオピア正教ではユダヤ教の習慣が多く残っています。

第五問、「魂を休める日(安息日)はキリスト教では日曜日、ユダヤ教では土曜日、イスラム教では金曜日である。」専門ではないので詳しい解説は出来ないのですが、世界各国の祝日・休日を知る手がかりになるので、ご参考まで。

第六問、「旧約聖書はキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の全てで聖典とされている。」3つの宗教とも経典が同じ、というあたりから、今日のお話を始めたいと思います。

今日のレクチャーではエチオピアで撮影した写真を見ながら、エチオピア正教や新約・旧約についてご説明したいと思います。

 

エチオピア正教とラリベラの紹介

〜ユダヤ教、キリスト教、イスラム教〜

まずはこの写真からスタートします。写真に写っているのは私の担当する事業のドライバー、イサクです。場所はラリベラの教会にある「イサクの墓」。ここには旧約聖書に登場するアブラハム、その息子のイサク、その息子のヤコブの墓(のレプリカ)があります。

旧約聖書でアブラハムが登場するのは創世記12 章からです。人類の祖先とされるアブラハムにはサラという妻がいますが、二人には子どもありません。そこで奴隷のハガルとの間に子どもをもうけて、イシュマエルと名づけます。ところが高齢のサラにもやがて息子が産まれ、イサクと名づけられます。このイサクから、やがてエジプトを脱出してカナン(現在のイスラエル)に定住するユダヤ人が誕生するため、アブラハムとその息子イサクの家系がユダヤ人の祖先とされています。イエスが産まれたのも、アブラハムーイサクーヤコブから綿々と続く、ユダヤの家系です。余談ですが、アブラハムとサラの話にちなんで、エチオピアでは高齢の夫婦の子どもや末息子に「イサク」という名前をつけるようです。私のドライバーのイサクも末っ子です。

一方、奴隷ハガルとその息子のイシュマエルはイサク誕生後、荒野に追い出されるのですが(創世記21 章)、厳しい土地で生き延び、やがてアラブ人の子孫となります。イシュマエルの家系からやがてモハンマドが生まれて、イスラム教の創始者となります。

ユダヤ教、そこから派生するキリスト教、イスラム教ともにアブラハムを祖先とするため「アブラハムの宗教」と呼ばれたりします。そしてアブラハムの話が紹介される旧約聖書は、これらの宗教全てで聖典(の一部)とされています。

 

次の写真は世界遺産に指定されているラリベラ岩窟教会郡の中でも最も有名な聖ギルギオス教会です。地面を15 メートル近く掘り下げて作られた教会で、ノアの箱舟をモデルとしていると言われます。ノアの箱舟(創世記6 章)については、前回のPart1:聖書編をご参照下さい。

 

この写真はゴンダールにあるデブラ・ブラハーヌ教会の内部の壁画です。エチオピア国内の教会壁画(バハルダールの修道院など)は近年になって塗りなおされていて、かなり毒々しい色になっていることが多いのですが、ここはオリジナルの壁画と

色彩が美しく残る貴重な教会です。

 

これはデブラ・ブラハーヌ教会内部の天井画に描かれているヨハネの首です。新約聖書ではイエスに洗礼を授けたヨハネは領主ヘロデに首をはねられて殺されてしまいます(マタイ14 章など)。エチオピア正教ではこの続きとして、ヨハネの首に羽が生えて、何十日間か空を飛び、宣教を行ったことになっているようです。カトリックやプロテスタントで利用されている普通の聖書にはこのようなオカルト的なお話はありませんので、あくまでエチオピア正教オリジナルのストーリーです。写真が鮮明ではありませんが、羽の生えたヨハネの首がたくさん空を舞っている様子が描かれています。

 

これもデブラ・ブラハーヌ教会内部にある壁画で、一番下に弟子の足を洗うイエスの様子が描かれています。このお話は新約聖書のヨハネによる福音書13 章に書かれています。弟子の足を師であるイエスが洗ったあと、こう語ります「師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない・・・僕は主人にまさらず、遣わされたものは遣わした者にまさりはしない」。この個所は、キリスト教における「奉仕」の精神をよく表しているといえます。

 

隊員の方からいただいたアンケートの中に「なぜエチオピアの教会は円形、または八角形(六角形?)平面なのか」という質問がありました。これはユダヤ教の影響が強いためで、内部の礼拝堂が男女別になっていることや、各教会に十戒を収めた石棺(アーク)のレプリカが安置されていることとあわせて、旧約聖書の強い影響を受けているようです。

 

隊員の方からいただいた質問に「(エチオピア正教では)なぜ全身白い衣装なのか」というものもありました。白い衣については、聖書の中に、イエスが着ている衣が白く輝く場面がありますし(マタイ17章2節)ヨハネの黙示録の中にも白い衣の人たちが出てきます。聖書の中では、白は清められた色、潔白、清純を表すので着るのだと考えられます。また、キリスト教がローマ国教に指定されたのち、当時のローマの影響を受けた衣装これはデブラ・ブラハーヌ教会内部の天井画に描かれているヨハネの首です。新約聖書ではイエスに洗礼を授けたヨハネは領主ヘロデに首をはねられて殺されてしまいます(マタイ14 章など)。エチオピア正教ではこの続きとして、ヨハネの首に羽が生えて、何十日間か空を飛び、宣教を行ったことになっているようです。カトリックやプロテスタントで利用されている普通の聖書にはこのようなオカルト的なお話はありませんので、あくまでエチオピア正教オリジナルのストーリーです。写真が鮮明ではありませんが、羽の生えたヨハネの首がたくさん空を舞っている様子が描かれています。

を採用した、という説もありますが、確かなことは分かっていません。

 

この写真は今年のエチオピア・クリスマス(1 7 日)にラリベラで撮影したものです。派手なパラソルに王冠のようなものを被った司祭が金色の十字架を手に次々に現れます。隊員の方の質問に「(エチオピア正教の)教会の派手さ」についての指摘がありました。これは復活して天に昇ったイエスがやがて再び地上に降り、王として支配する、という信仰に基づくものです。

この信仰が強いエチオピア正教やロシア正教などでは神殿のような教会が建てられ、司祭も王冠や装飾品に身を固めた派手な格好をしています。その一方で、ヨーロッパでは中世で堕落した教会から多くの修道院ができたり、新しい宗派であるプロテスタントが出来たりして、修道的生活が重視されるようになりました。「清貧、純潔、服従」の三つの要素が広く浸透しているので、派手さは今はないですが、カトリックの中にはかなり派手なのがあります。TV でたまに映されるローマ法王の礼装などを見ると、分かるでしょうか。

最後にエチオピアの聖書について。これはラリベラの教会に保存されている古いグズ語の聖書です。前回ご紹介したように、エチオピア正教で利用されている聖書は通常の聖書に22章追加されたオリジナルなもので、エチオピア正教でお祝いされる多くの聖人(とその祝日)は一般のキリスト教徒には馴染みのないものです。「(空とぶ)洗礼者ヨハネの首」のようなお話は、残念ながら英語に翻訳されていないので、その詳細は分かりません。

 

隊員の皆さんからの質問

それではここからは、可能な限り隊員の方々から寄せられた質問にお答えしたいと思います。

 

「イグザビエル?」(本当?)を使うのはエチオピア正教の人だけか

「神様」という意味ですので、オーソドックス、プロテスタント、ムスリムを問わずに使われているようです。

 

食事の前のお祈りでは、どんな意味のことを言っているのか

食事の前の祈りでは、食事を与えてくださったことを神に感謝する祈りをします。そして、イエスキリストの名によって祈ります。と最後につけます。人によっては、いろいろなことを祈りますが、食前の祈りは、「食事の感謝」が基本です。

 

HIV/AIDS のARTについて、「あれは寿命を延ばす。寿命は神だけが知っているものだからそんなことしたら神に反する」と言って受け入れられない人がいる。とはいってもそれ以外の薬は普通に飲んでいる。「症状を緩和させるだけだから」ということらしい。しかも拒否しているのが自分ならいいんですが、孫の治療にあたってそう言って拒否。孫の人生だろう!と思ってしまい、理解しかねます。

HIV/AIDS の抗ウイルス治療(ART)については、エチオピアの一般信者の間で「ART を行うと聖水(ホーリー・ウォーター)がもらえない」などという風評が出回っていたようです。

事態を深刻に見たオーソドックスの大司教が最近になってコメントを発表した、と聞きました。その中では「ART を開発したのは人間であり、人間の行いを可能とするのは神のみであるから、その治療が神の意志に反するというのは間違いである」と述べたようです。エチオピア正教の聖職者(特に高位)には修士や博士号を持つ人も多く、決して非科学的・狂信的ではないようです。

 

「僕達が結婚するかどうかは神様が決めてくれる」と言ったおにぎりのようなアベシャ男がいましたが、「ふざけんな。アンタなんか私のタイプでも何でもないわよ。結婚するかどうか決めるのは神じゃなくて、このアタシよ!」と心中で叫んでいました。結局彼とは結婚しなくてすみそうなので、神様に感謝したいと思います。

ユニークなエピソードなので、それにからめてキリスト教と結婚について少しお話します。

婚姻は洗礼などと同じく、キリスト教の中では大変神聖な儀式(秘蹟)です。例えば結婚式について、日本の結婚式場にあるチャペルでは主にニセモノ(たまに本物かもしれませんが)の牧師さんが挙式をしてくれますが、きちんとした教会で式を挙げる場合は、則として信者になることが望まれます。少なくてもカップルで何回か教会に通って、牧師さんと一緒に聖書を読んだりするのが一般的です。とても神聖な儀式ですから、簡単に解消(離婚)することは許されません。例えばカトリックの影響が強いフィリピンでは離婚は禁止されているので、フィリピン人の男性と結婚した日本人女性はフィリピン国内では離婚はできません。

日本に極秘帰国して1 年以上経過すれば、日本の民法が適用されるので、その後離婚手続きが出来ます。

離婚が許されているイギリス国教会(聖公会)でも、則的には「結婚自体が無かった」ことにするので、何年か何十年かに及ぶ結婚生活を「存在しなかった」ことにしても良い、と思われる場合のみ許されます。つまり本当に例外的なケースのみ、となります。

 

洗礼名は教会で呼び名として使っているのですか?

カトリックやプロテスタントの一部では、洗礼の時に聖書に由来する名前(洗礼名)をいただくのですが、日常的には使いません。多くの女性の洗礼名が「マリア」ですし、男性も「ヨハネ」や「ペテロ」などが多いので、その名前で呼びあったらややこしくなりそうですね。

ただ教会に送付する手紙の最後などで「マリア__(下線は自分のフルネーム)」などと書いたりすることはあります。

 

聖書は何ページあるのですか?(旧約聖書、新約聖書それぞれ)

新改訳聖書では、旧約聖書が1439 ページ、新約聖書が461 ページあります。日本語の聖書には、いくつかの訳があり、それによって若干ページ数は違ってきます。

以前は聖書の解釈について、ローマ・カトリックが「正しい解釈」という物差しを設けて、他を異端とするような歴史が続きました。現在では個々人が聖書を通じて神からのメッセージを直接受け取る(その内容が固有であってかまわない)のが一般的です。

イエスの生涯や読みやすさを考えれば、まずは新約聖書から読みはじめることをお勧めします。聖書では一番最初(旧約聖書の創世記)と一番最後(新約聖書のヨハネの黙示録)が最も議論を呼ぶ個所なのですが、その解釈に時間を割くよりも、他の部分からじっくり読み始めてみる方が良いと思います。旧約聖書では「コレヘトの言葉(伝道の書)」などは日本人の心情に馴染みやすいかもしれません。その冒頭には「すべては空しい・・・日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る」とあります(コレヘトの言葉1 章)。ちょっと漱石の「草枕」を彷彿とさせます。

 

「コレヘトの言葉」とは、新改訳聖書では、「伝道者の書」にあたるところでしょうか?

「空の空。伝道者は言う。すべては空。空の空。日の下で、どんなに苦労しても、それが人に何の益になろう。」というのが冒頭にあります。

「伝道者の書」、その直前の「箴言」などは、味わい深い言葉がたくさん詰まっていて、一度お読みになることをおすすめしたいです。

新約聖書では、これなしにキリスト教は語れないともいえる、イエスキリストについて書かれている4つの福音書の中のどれかから読み始めるのがよいでしょう。

(でも、創世記も黙示録もおすすめしたい箇所ではありますが・・・)

inserted by FC2 system